水は答えをしっている

 いや、知らないと思うぞ。「いい言葉」をかけた水の結晶を主観的に選び出してるわけなので学術的な価値は全く無い。(著作の中に表記されている。「そうすると、ほとんど結晶があらわれなかった水、美結晶が多い水など、その水のもつ性質の傾向が一目でわかります。そのなかから、水の特徴をよくあらわしていると思われるものを一つ選び出すのです」195ページ)つまり、100人の美女軍団を連れてきて将軍様に好きな顔を選ばせているようなものなのだ。「この子は親にいい言葉をかけてもらって育ったのだな。およよ、こっちの子は悪い言葉をかけられたのだな?」(違)
 いや、その「いい言葉」を使おうという精神は結構なことだ。ぜひ進めて欲しい。だが、それが氷の結晶化に何らかの影響を及ぼすなどという非科学的なことを、あたかも科学的に立証されたかのような表現をして、子供たちに教え込むのはいかんだろう。日本人だから、「言の葉」の持つ呪術的な力を信じないわけではないが、あくまでもそれは科学的でないことだ。科学的というのは、実験をして客観的に実証あるいは反証できることだ。よしんば、「ありがとう」と書かれた紙を張ったビーカーの水がきれいな雪印のような結晶を作るとしよう。では、何によって、その言葉が書かれた紙から水にその何らかのエネルギーなり法則なりが転写されたのだろう。あるいは、悪意を持って書かれた「ありがとう」と本当の感謝の気持ちを持って書かれた「ありがとう」の間に有意の差はあるのか、あるいは、何度となく転送されたFAXで書かれた「ありがとう」でもその効果はあるのか。スワヒリ語で書かれたものを日本の幼稚園児が貼り付けても同じ結果はでるのか?
 そういった追試がされていないものが科学としてまかり通ってはならないのだ。水にそういった感受性があるとは全く証明されていないのだ。別に、社会的にムーブメントを起こすつもりはないが、少なくとも身の回りにいる奴でそういうことを言い出したら、笑い倒しながら撃破するのでそのつもりで。<誰にいうとんねん。