そして見えたモノ

日本の官僚組織と警察組織の意地を賭けて走り抜けた聖火護衛リレーを皆さんお楽しみいただけたでしょうか。
ネットを浚えばそのとき何が起きていたかは知ることができるでしょう。日本側、チベット側、中国人側、そして警備側。
中国人の人たちも決してすべてが正しいことと思っていないことが理解できます。しかし、そういう人でもあの赤い旗を振り回す群衆の中に動員されている恐ろしさがこの騒動の奥底にあります。
チベットの人たちはまた、地下へもぐるでしょう。沿道にはためく雪山金獅子旗の数を勇気のかけらにしてくれれば少しも日本人としての気持ちも晴れます。
さて、この騒動で見えたことはなにか。

絶対に外国人参政権なんて許せないことです。数と暴力による恐怖でその地域を牛耳ってしまうことができるようなシステムを作り上げてはなりません。少数派に敬意を払うことなく、全て多数の力を操ることができる権力は独裁国家です。独裁者がいるわけではない。党という力を持つ集団による独裁。金と権力(血)がその象徴であるのはあの旗印を読み解けば見えてくるものです。
我々日本人が日本人であるということ以前に、個人一人ひとりが尊重され、自由に社会に参加できる世界を維持するためには何が必要でしょうか。いや、外国人一人ひとりが、この日本列島の地に骨をうずめる覚悟で、この地に広がる社会を維持発展させていくための一駒として活躍したいなら、外国人が参政権を持つのもやぶさかではありません。しかし、今起きようとしているのは、あの長野の聖火リレーコースという小さなエリアに数千人の中国人が終結して数の威力を見せ付けようとしていることにほかなりません。はたして、それが正しいことでしょうか?
偏狭なナショナリズムとか揶揄する人もいます。しかし、その偏狭なナショナリズムで攻めてくる相手がいる以上、そしてその相手が決して好意的でない場合、戦うしかないのではありませんか?

自分たち、子供たちの将来を外国人に託せるのでしょうか?

ある日、自分の庭先に赤い旗を立てろと強制されたら、どうしますか?

政治はわからない、では済まないところまで来ている。それは自覚したほうがいい。
改革するべきところと、保守しなければならないところはしっかりと見極めるべきだ。口先だけの甘言で釣る相手は、決して自分のことは考えてくれないよ。